雄弁会の歴史
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黎明期
国家の独立は国民の独立に、国民の独立は其の精神の独立に、国民精神の独立はこれ学問の独立に由るものである。
明治15年10月21日、早稲田大学の前身、東京専門学校開校式である。開校までの実質の推進者であった小野梓は烈々たる想いで参集した学徒にこう訴えかけた。前年の明治十四年の政変により大隈重信侯は薩長連合閥族に敗し、野に下る。しかし、彼の憲政に懸ける情熱と文明国日本建設に馳せる想念により、ここ早稲田に早稲田大学は誕生する。この学校創立の前提なくしては、雄弁会の誕生は語れない。
翌明治16年、学生達の間で弁論と図書の研究を目的とした「同攻會」なる組織ができる。時代は民権運動の弾圧、圧政の著しき中であり、同攻會は激しく批難、攻撃し、早稲田の杜に初めて弁論を響き渡らせたのである。これが後に雄弁会に繋がる母体である。
当時日本は、富国強兵、殖産興業を国策として掲げ、西欧列強に伍して競わんことに懸命であった。明治28年、眠れる獅子清朝中国との戦に勝利し、多額の賠償金と台湾を割譲せしめ、次なる敵国をロシア帝国と定め、本格的な資本主義経済段階へと展開し、近代化を邁進し続けていた。近代化産業の拡充と軍備の拡張に伴い、それに不可欠な原料を供給する鉱山は乱開発されていった。
その矢先に、ひとつの事件が社会問題化する。
日本公害の原点とされる、足尾銅山鉱毒事件である。
明治34年、栃木県足尾銅山に於いて、その産出過程で鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、一帯の農民と農地に深刻な打撃を与えた。稲も麦も山川草木枯れ果て、農民達は生活の道を閉ざされ絶望するしかなかった。この惨状を見、世に訴え、農民達の救済を訴え立ち上がったのが、田中正造衆院議員であった。「亡国に至らざるを知らざれば、即ち亡国なり」と激しく政府を糾弾した。その意に賛同し、早稲田、慶応、東大の学生は立ち上がり、「学生連合視察団」を結成した。現地に赴いた彼らを待っていたのは、荒涼とした大地と、疲弊しきった農民達の悲惨な姿であった。学生達はこれに涙し、そのまま救済運動演説団と称し、惨状を全国にて演説し、広く世に問うたのである。この運動によりついに政府内に鉱毒問題調査会が設置された。初めて学生の言論が輿論を動かしたという興奮に、運動が終了してもこれを何らかの形で残すべきだとの意見が次々に出され、早稲田に於いては、永井柳太郎、菊池茂らを中心に雄弁会が結成されるに至るのである。
我国には、能弁家や達弁家は多いが真の雄弁家は殆ど見あたらない。我々は事実の説明家や思想の叙述者を以て満足してはならない。宜しく輿論を喚起し、一世も動かすような雄弁家を作らねばない。
この小野梓の言葉より「雄弁会」は生まれた。この雄弁会の結成趣旨に賛同された大隈侯は自ら総裁に就任され、初代顧問に高田早苗博士、初代会長に安部磯雄教授という錚々たる面々を戴き、理論の究明に留まらない社会的実践を基調とする学生団体「早稲田大学雄弁会」は遂に始動したのである。時は明治35年12月3日であった。その誕生において既に政治的、社会的使命を背負った実践集団であったのである。
結成後、雄弁会はメディアらしいメディアが殆どなかった当時の日本に於いて唯一の啓蒙手段であった弁舌を用い、自由と正義、政党政治と民主主義の意義を日本中に説いてまわったのである。大正3年、大隈侯は雄弁会総裁の立場のまま内閣総理大臣に就任する。総理大臣になっても大隈侯は雄弁会との遊説への同行をやめようとはせず、むしろ精力的に全国に馳せ参じ、時には各停車駅ごとに汽車の窓から身を乗り出し車外の人々に対し大雄弁を振るったという。この大隈侯の姿を見、同行した会員には、中野正剛、西岡竹次郎、堤康次郎、尾崎士郎らの面々があった。
草創期
今日の日本において、今日の世界において、なお階級専制を主張する者、西には露国過激派政府のニコライ、レーニンあり、東には我原総理大臣あり。レーニンは労働者階級であり、原首相はむしろ資本家階級であることは違うけれども、共に民本主義の大精神を失うことは同じである。
永井柳太郎は初当選後の大正9年7月8日衆院本会議場で原敬を批判した。原敬内閣は初の本格的政党内閣として誕生し、平民宰相として国民より絶大な支持で歓迎された。しかし原内閣は高揚する大正デモクラシー輿論を裏切り、普通選挙法案を廃案とした。永井は再び壇上に立った。
空に輝く一点の星といえども、地に咲く一輪の花といえども、意義なくしてこの世に存在する物はない。いわんや万物の霊長たる我々人間は、如何に貧しき労働者といえども、如何に不治の病に悩む者といえども、全てその人でなければ果たすことのできない独特の天命を担うてこの世に生まれ出たのであります。
永井の弁論は、〝舌三寸の神技〟と讃えられ圧倒的に国民に支持され、この弁論の3年後に普通選挙法案は可決されるに至るのである。
大正6年、ロシア帝国にて革命が起こり、ソヴィエト革命政府が誕生した。このニュースは我国にも大きな波紋を呼ぶこととなり、雄弁会においても革新色を強めることとなった。一方で列強諸国は互いに牽制し合い、第1次世界大戦後も硝煙が漂っていた。日本政府は更に国民皆兵を推し進めようと、大学で軍事教育を進める研究を始めようとしていた。この計画の下、大正12年5月10日、軍事研究団の発団式が早稲田大学大講堂で執り行われることとなった。これに猛反発した雄弁会は、浅沼稲次郎、戸叶武、稲村隆一を中心に抗議集会を企図した。この日の大学は朝から不穏な空気が漲り、大学の正門や塀には
――軍閥と闘った大隈の意志を護れ――
――軍閥を倒せ!軍閥の走狗を葬れ――
などの立て看板やビラが掲げられ、緊張感が溢れていた。
午後3時、発団式が開始され、団長の青柳教授が挨拶をはじめるや、壇下の野次は猛烈を極めた。
――青柳!恥を知れ!軍閥に早稲田を売るのか!――
などという声と共に床を蹴り、机を叩いて会場内は騒然となり挨拶にはならなかった。
更に来賓として陸軍大臣代理白川義徳次官が壇上に登るや、
――お前の勲章には同朋の血が流れているぞ!――
などの怒号が飛び交い、散々な状態で発団式は終了した。翌日、雄弁会主催で学生大会が「早稲田の学園をして軍閥の蹂躙にまかせしむるなかれ」との反軍閥の呼びかけで行われることとなった。
これを聞きつけた相撲部、柔道部の一部は、
――国家の基礎を危うくする徒輩を懲らしめよ――
などのビラを学内に貼り、雄弁会との対決闘争の姿勢を打ち出したのである。開会宣言に続き浅沼が宣言文を朗読しようとしたその時、相撲部、柔道部の学生達が一斉に襲いかかり、会場は一気に血の色に染まった。浅沼は取り囲まれ、袋叩きにされ、眼鏡は吹っ飛び、血だらけになって倒れた。他の雄弁会員も惨禍にまきこまれ、大怪我を負った。
この事件を憂慮した大学当局は、やむを得ず軍事研究団を解散する。
しかし、政府は大正14年には治安維持法を制定し、普通選挙によって促された大衆の政治参加、無産政党の国政参加を厳しく制限し、言論、思想の弾圧を強化していくのである。
こうした軍閥の台頭に対し、奮戦した雄弁会出身の代議士がいた。中野正剛である。昭和2年、元陸軍大臣であり、政友会総裁の田中義一内閣において満州某重大事件という軍部による暗殺事件が起こった。
これを擁護する田中に対し、中野は壇上にて、
貴様の存在は国家の不祥事である。
と述べ、
――貴様、議会に血の雨を降らすぞ!――
という軍閥の野次にも全く動じず、田中を見据え、
君の決心一つで我国、文明国としての対面が保たる。一身の地位が重きか、国家の対面重きか、軍の名誉重きか、その地位投げ打つこと国家の為にできぬか!
と追求したのである。後に田中は陛下にこの責を問われ、憤死することとなった。
このように軍部への抵抗の先頭に立つ雄弁会が、当時の状況の中で当局から睨まれないはずがない。
教授側に圧力がかかり、終には会長を引き受けるものもいなくなってしまう。必死の抵抗も虚しく、八方塞の状態に追い込まれ、遂に昭和4年、雄弁会は大学当局の手により、解散させられてしまうのである。大隈重信侯以来続いてきた雄弁会の旗はここで一旦降ろされ、受難の時代を迎えることとなる。
激動期
一度、国際問題に直面すれば、弱肉強食の修羅道に向って猛進する、これが人類の歴史であり、現実である。この現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並び立てて千載一遇の機会を逸し、国家100年の大計を誤るようなことがありましたなら、現在の政治家は死してもその罪を滅すことができないのである。
昭和15年、雄弁会出身の代議士、斉藤隆夫は吹き荒れる翼賛体制の中で、軍閥の跋扈する議会に於いて死をも覚悟で激しく糾弾した。戦争自体を自己目的化している日中戦争に対し、軍部の傲りを鋭く抉ったのである。陸軍は
――聖戦、皇軍への冒涜である!――
と反発し、斉藤は議会から除名されることとなった。日本は以後、全面戦争へと突き進んでいくのである。
昭和16年、東条英機翼賛体制の中、非翼賛を貫き強権東条を弾劾した代議士がいた。中野正剛である。
完全な独裁政権にて凡そ権力の周囲には阿諛迎合な茶坊主ばかり集まってくる!日本を誤るのは政治上層部の茶坊主どもだ!
当時日本はミッドウェー海戦で敗北、戦局は悪化の一途であった。東条は戦局の実情を国民に隠し、兵力増員のためと青年学徒を戦場へ送る学徒出陣を企図していた。中野は翌昭和17年11月10日、母校早稲田大学大隈大講堂に3,000人を超える学徒兵の前にいた。敗戦濃厚の戦場に送られ、命令に従い、個もなく自由もなく死に逝く若者の前で滔々と述べたのである。
諸君は、由緒あり、歴史ある、早稲田の学生である。便乗はよしなさい。役人、準役人にはなりなさるな。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る!興らざるは努力せざるにある!諸君みな一人で以て興ろうではないか。
この講演の翌年、中野は憲兵に終始監視される中、自宅で日本刀にて腹を真一文字に切り裂き、自ら頚動脈を一突きし壮絶な死を遂げたのである。
昭和20年8月15日、日本は敗戦する。
再興期
この荒れ果てた日本を立て直すには、政治しかない、政治しかないんだ。
戦後、学徒動員から復員した竹下登は、焦土と化した故郷を前に立ちつくしこう呟いた。
当局によって解散させられたからも、雄弁会はその精神を先輩から後輩へと語り継いでいた。この小さな灯を守り、学問の自由と独立を希求してやまなかった学生の一人が、竹下登である。彼は、宮崎吉政、石田博英らと共に、三木武吉ら雄弁会出身の政治家の活動を目の当たりにしていた。その意味で「雄弁会」という名は地下にあっても焼きついていたことであろう。昭和21年、ようやく大学が正常に動き出すと、「とうとう早稲田の時代が来た!」と学生達は希望に燃えた。大隈侯の理想であった主権在民が遂に実現した、戦後は早稲田が担うのだ!そういった空気が学内に溢れていた。その中で当時活動していた「弁論部」と「学生雄弁会」の2つが統合され、昭和21年、遂に「早稲田大学雄弁会」は再建されるのである。戦後の荒れ果てた国土の中で、議論の論題には事欠かなかった。そういった時代性はむしろ多くの学生を政治に向わせたのである。雄弁会も春の時代を向え、討論会、弁論大会、遊説とその勢いを伸ばしていった。この時期に青木幹雄(元官房長官)、三塚博(元大蔵大臣)、海部俊樹(元内閣総理大臣)、渡部恒三(民主党国対委員長)、藤波孝生(元官房長官)、玉沢徳一郎(元農水大臣)、深谷隆司(元通産大臣)、森喜朗(元内閣総理大臣)、そして小渕恵三(元内閣総理大臣)らが雄弁会を担い巣立っていった。
昭和三十五年十月十二日、彼らに衝撃を与えた事件が起こった。
「人間機関車」と称され、親しまれていた先輩が壮絶な死を遂げたのであった。浅沼稲次郎社会党委員長である。
日比谷公会堂の壇上に立った彼は、右翼の野次怒号の中、
どんな無茶なことでも金で数を作り、数にものを言わせて押し通すならば、いったいなんの為の選挙であり、なんの為の国会でありましょう。
そして彼がいよいよ核心である安保問題に話が及ぶと
――だまれ!中共ソ連の手下!――
――アカハタ社会党撲滅せよ!――
右翼聴衆の野次は熾烈を極め、壇上に飛び上がりビラをまく者もあらわれた。司会が静粛に!と割って入った直後、壇上右側より飛び入った学生は短刀の鞘を抜くや浅沼に突進した。驚くべきは浅沼は身じろぎもせず、演説が不可能となるまで堂々と演説を続けたのである。この惨劇を目の当たりにし、自らの思想貫徹の為には、生命すら厭わない浅沼の姿勢に多くの雄弁会員は涙した。大物代議士でありながらも古ぼけたアパートに住んでいた浅沼、その夜彼の自宅では、思想を超え、多くの学生が集まり、〝都の西北〟の歌声は明け方までやむことがなかったという。
躍動期
私はビルの谷間のラーメン屋。大国の間でいかに耐え忍んできたか。やはり忍耐と謙虚が大切だよ。
選挙区では、福田・中曽根両元首相に挟まれながら、粘り強く、そして堅実に当選を重ね一国の総理となった平成の国民宰相、小渕恵三。地を這うような低い内閣支持率でスタートし〝3日持てばいい〟と酷評されながらも長期政権を維持し、次々と重要法案を通し戦後の総決算をおこなった。平成11年には総理以下7名もの閣僚・政務次官を雄弁会出身者が占めた。各マスコミはこの事実を驚愕と嫉妬の入り混じった論調で大々的に報じた。
雄弁会員皆が先輩の活躍を誇りに感じていた平成12年5月15日――新歓合宿を終えた寸刻の後であった――訃報は知らされた。
自ら開催地を選定し、熱い思いを寄せていた沖縄サミットを目前にして不帰の人となった小渕。雄弁会員は警備員の制止を振り切り、明け方まで大隈講堂にて、〝都の西北〟を歌い追悼したのであった。
昭和40年代、民青同盟と革マルの殺人辞さぬセクト闘争、林立するゲバ棒、バリケードの中で雄弁会員として闘い抜いた、荒井広幸、下村博文、山本有二ら若手が国政中枢を担わんと活躍している。マスコミでは黒岩祐治、粕谷賢之、その他、地方政界、言論界、財界、法曹界で自らの理想を胸に日々を送る雄弁会出身者が全国各地に数多くいることを決して忘れてはいけない。
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※役職等は2006年9月時点